7月16日、「第42回帯広空襲を語る会」に参加してきました。
帯広空襲は、当時の啓北尋常小学校付近(今の大通北1~南1丁目付近)に機銃掃射や50kg爆弾3発が投下され、0歳から17歳の6名が命を落としました。近隣に住んでいた方や、被害を受けた家族らが実相を後世に伝えるためにと1982年に第1回を行い、7月15日の帯広空襲の日の前後の日曜日に毎年開催されています。
ここ4年はコロナ禍で、室内での「語る会」は開けていませんが、帯広総合体育館(現・よつ葉アリーナ十勝)の敷地内にある「帯広空襲の碑」前にテントを立てて、屋外で語り部の方が話をしたり、参加者で座談会を行うなど工夫をして、途切れることなく続いています。
私は市議に初当選した2015年以来ほぼ毎年参加させていただき、参加者の直接の体験談や、語り継いでいる話、毎回出てくる新しい事実に、この帯広空襲の実相はしっかりと語り継いでいかなければならない、と強く認識を重ねています。
リアルな体験、平和への思い口々に
午前中の語る会には40人近くの方が参加し、実際に被害にあった吉澤澄子さんと小室和子さんの体験談に耳を傾けました。
吉澤さんは高等女学校1年の頃に空襲に遭い、野菜むろにしていた防空壕に避難したことや、語る会を続けてきたことで情報が集まり、当初被災家屋が57軒だったものが123軒になっていることなどを話しました。
小室さんは「当時は出征が誉れだったが、兄を送ったあと母が隠れて泣いていた。空襲当日は耳を塞いでいたがすごい音で、外に出ると電線に様々なものが引っ掛かっていた。西で働いていた父が『住んでいるところは全滅した』と聞かされながら帰ってきた」と、当時の現状をリアルに話しました。
その後の座談会では参加者それぞれが平和への思いを口にし、「幕別の工場の壁に未だに迷彩色が残っているところがある」「父が当時利別駅で空襲にあった」など、新しい十勝の空襲の実態も伝えられ、貴重な情報共有の場ともなりました。
「平和」という言葉は、どんな立場の人も口にします。でも今政府が進めようとしていることは、一部の人だけよければいい、独りよがりの「平和」ではないかと感じています。本来進めるべきなのは、自分だけ良ければいいのではない、周りを含めて「平和」であることではないでしょうか?
この7/15を、帯広で生まれた1人として、しっかりと忘れずに、伝えられることを伝えていきたいと思います。
はりま和宏 日本共産党帯広市議
(「ほっかい新報」8月6日付より)