私の日本共産党との出会いは、学生運動(釧教大に65年入学)に参加、仲間に勧められた日本共産党発行の学生新聞購読や「アカハタ」新聞の購読でした。活動のなかで、日本の政治、世界の働きの学びの毎日でした。日本政治の展望について、『日本革命の展望』を購入して繰り返し読みました。また、民主青年同盟を知り加盟、後に、日本共産党に入党しました。

 特に、日本の政治変革の基本戦略として、侵略戦争反対、国民主権を正面から取り組む政党、政治を根本的に変える「反帝反独占」の民主主義革命を戦略的課題に据え、社会主義社会を展望し、変革の力は民族民主統一戦線と規定。乱暴な干渉「50年問題」に対して、自己改革の力で自主独立路線の組織原則を確立した政党であることは学生党員の私には確信になることでした。いま振り返ると、この展望はいまに生きて鮮明となっていることを感じています。69年から地区党に勤務した者として、過去を振り返ると、管内で戦前1930年代、酪農家や労働者の組合などが組織され、40年代、炭鉱の労働条件改善要求ストなどの闘いが起こりましたが、弾圧されました。そして同時期、太平洋戦争に突入し、住民は戦時体制に組み込まれていきました。

 敗戦後、釧根地域では、戦前の組合結成を土台に国鉄、炭鉱労働組合が結成され、合理化・人員削減反対闘争のなかで、運動の中心となる釧路地方労働組合も結成されました。

 農民分野では、冷害、水害に対する生活救済の農民の闘いが起こりました。同時に、地域・住民とともに、生活と権利を守る闘いも起こりました。

 50年代、占領下で、公務員、炭鉱や国鉄でレッドパージが始まり、定員法で人員削減、定数削減が相次ぎ、共産党の非合法化、マッカーサーの党の公職追放はじめ、「破防法」による弾圧が相次ぎました。(武佐事件など)。

 一方、「原水爆禁止」の署名など多彩な活動が行われ、市民、婦人、業者など民主団体結成や一般合同労組結成や組織強化も取り組まれました。

 59年、釧路市などで「安保」共闘会議が結成され、地域の「安保条約反対」の行動が繰り広げられ、60年代には、別海など農民、労働組合、市民組織、青年・学生の運動が多彩に広がった年代でした。

 これらの闘いを背景に、8回大会から「二本柱」の活動で、党勢は15回大会までで数倍にして影響力を広めました。その後、前進めざし、大衆組織の強化、共同の闘いにも力尽くしてきました。

 このようななかで、釧路市議選で2名立起して1名当選、57年に2名当選したのを契機に、1960年代には、市町村議選挙で複数議席獲得や空白克服に挑戦、実現しました。

 また、確信自治体が誕生しているなかで、釧路市でも山口市長が誕生。安保共闘などの力と言われました。同時の市議選では、3名の党議員団を誕生させる力となりました。

 90年代以降、党勢拡大などを土台に、全15市町村議会に住民のくらしを守る党の議席を守ってきました。

 80年代から、「共産党除く」の動きが強まるなかで、選挙制度改悪、少数政党の排除や、支配の新たな戦略「二大政党制」が持ち込まれ、少数政党に「逆風」として働きましたが粘り強く闘いました。

 労働組合運動分野の自覚的な闘いで、主な市町で6つの統一労組懇が結成され、地方のローカルセンター確立の活動で、「全労連」の結成に貢献しました。

 革新懇運動、「一致点での共同」に取り組みつつ「食健連」の結成や婦人運動、矢臼別平和盆踊り、青年学生平和友好祭など、分野別、地域別共同闘争を年間を通じて取り組み、「共同闘争」の力を強める活動を進めてきました。

 国民の要求が多様化するなかで、接点を広げ、国民・住民と共闘して闘い、そして、期待に応えることが出来る強大な党を粘り強く建設することが求められていると思います。

元釧根地区委員長 澁谷 肇

(「ほっかい新報」12月4日より)