今野大力碑の前で―左から菅間、宮本忠人、東博の3氏

知識人・文化・教育委員会担当の頃――北大・堀内学長が入党

 大きな思い出の一つは、当時、大学民主化の先頭にたっていた北大の堀内寿郎学長が、自主・民主の大学づくりの運動のなかで日本共産党に入党したことです。

 私が党北海道委員会から呼ばれて仕事の場を余市(農水省北水研)から札幌(道委員会)に移したのは、今からほぼ50年前、1969年の末でした。60年代は日本共産党にとって大変重大な時期で、スターリンの干渉による50年代初期の党の深刻な分裂を大変な努力で克服し、1961年には第8回党大会で綱領を満場一致で採択し、日本の進路を明確にした時期でした。そのこともあり、日本の民主運動も各分野で前進し、大学でも教授会のみならず、全構成員の自治をめざす民主化の運動が全国各地で前進していました。

 北大でも、ニセ左翼の暴力集団が、大学の民主化に乗じて一部の学部や教室を占領し、入学式の妨害策動などに走っていましたが、これに対し、当時の堀内学長(1968~71年度)はじめ学内の民主勢力が、全力をあげて学園を守り、新入生を快く迎えました。その方針を民主勢力のビラなどで見た保護者が、これなら安心して子どもを大学に送ることができると感想をのべていたそうです。北大の民主化を目指した堀内さんは、次の学長選挙では惜敗しましたが、堀内さんを支えた民主勢力が目指した方向は、その後の北大民主化の共通の目標、方向になりました。

 一方、日本共産党は第8回党大会後、各分野の政策を確立し、1974年には「三つの自由」を決定しました。それは、1969年と1972年の総選挙でかちとられた共産党の大躍進に恐れをなした自民党などが、1974年4月の京都府知事選や同年6月の参院選をまえに、「自由社会を守れ」の大反共攻撃を展開してきたことに対して、日本共産党がその立場・見解を明らかにしたものです。その意義と内容を説明するため、当時の宮本委員長が札幌で記者会見し、さらに大演説会(1974・6・2 真駒内アイスアリーナ)を行いました。そのとき堀内さんは、その内容に共鳴し、その演説会にも弁士として立ち、日本共産党への入党決意を表明されました。共産党の「三つの自由」、とくに市民的・政治的自由は、思想・良心の自由、言論・出版の自由、結社・表現の自由などをしめすものであり、当時のニセ左翼暴力集団の主張とも真っ向から対立するものでした。「三つの自由」に共鳴して日本共産党に入党した堀内さんの決断は、民主勢力の多くの人たちを大きく励ますものとなり、参院道選挙区で小笠原貞子トップ当選(41・6万票)にも貢献したことは今も忘れがたいことです。

 さらに日本共産党は、1976年7月の第13回臨時党大会で、「自由と民主主義の宣言」を採択しました。その方向は大学の民主化を目指して活動してきた方向とも合致するものであり、これまた、運動を支えてきた多くの人たちを励ますものとなったことも覚えています。

政策委員長の頃~農林漁業と中小企業は基幹産業~

 私は余市での水産研究者時代の頃(1960~69年)から、日本漁業の主人公は漁民であり、漁業は、農業、林業、中小企業とともに日本の基幹産業であると考えていました。その立場から政策委員会を担当した頃(1984~99年)は各分野の政策づくりに努力し、それぞれほぼ完成した段階で、各分野の関係者・専門家に集まっていただきシンポジウムを度々開きました。その場でさまざまな貴重なご意見をきかせていただきましたが、その中で今もはっきり耳に残っているのは、北見方面で行った林業シンポで「北海道では、木材は山から運んでくると思っていたが、海からもって来るというのが現状なのか」という発言でした。

 どういう方の発言か今は記憶にありませんが、その直後、東京にいる水産研究者時代の友人から、東京では、すしのネタであるまぐろは飛行機で運ばれ、海ではなく飛行場にとりに行くという話があると聴きました。また同じ頃、農業経済の研究者から、北海道の大豆も同じような状況にあると聴きました。農林漁業の主要生産物の幾つもが「輸入頼り」になっていたということ、この事態をなんとか打開しなければ、というのが40年前の私の考えであり、当時の決意でした。

大軍拡・国民には冷たい政治の転換を

 先日、あるテレビ局の討論で日本の食料自給率が問題になり、出席されていた二人の研究者が、現在の日本の食料自給率は38%であると述べ、このままでは日本の未来は深刻なものになるとこもごも指摘されました。

 これにはまったく同感であり、大軍拡には熱を入れるが、国民の生活には全く冷たい今の政治は、一日も早く終わらせなければならないとますます強く思うようになりました。

元党道委副委員長 菅間慧一

(「ほっかい新報」12月11日付より)