訴える松田ひとえさん

 7月20・21日の二日間。北海道被爆者協会と被爆二世プラスの会によって、北海道庁のロビーで「被爆78年 被爆者と二世が語る 被爆の証言と原爆展」が開催されました。

 原爆投下から78年、北海道の被爆者の平均年齢は約86歳。被爆者の願いである核兵器のない世界に向けたとりくみは急務です。しかし、5月に広島で開かれたG7サミットは核兵器禁止の方針をうちだすことを願った被爆者の思いを裏切りました。

 「証言と原爆展」では、札幌南高校定時制1年生が制作した原爆ドームのモザイク画をはじめ、原爆パネルや遺品・資料なども展示され、来場者は真剣なまなざしで見つめていました。

 二日間で、証言された被爆者と二世8人のうち、お二人の証言を紹介します。

弟の死をきっかけに

 被爆二世の松田ひとえさんの両親は、戦後、広島から北海道へ移住。そこで松田さんを含め5人の子どもたちを育てます。松田さんは子どものときから「いじめらられるのではないか、結婚できないのではないか」など不安を持っていても、話すことができきなかったと語りました。そして、子どもたちの間では、「原爆の子だから長生きできないだろうというのが暗黙のルールとしてあった」と、当時のことを振り返ります。

 弟が10万人に1人と言われる癌で亡くなったことをきっかけに、「毎日、明日病気になるのではという恐怖を感じた」といいます。その後、原爆資料館を訪ねるなど78年前に何があったのかを調べ、自らの思いや体験を語るようになったとのことです。そして、原爆で亡くなった幼い姉や人々への思いにもふれながら、「平和や原爆のことについて考えてほしい」と呼びかけました。

呼びかける大村一夫さん

目に見えない核の恐ろしさ、戦争について考えて

 4歳の時に、広島で被爆をした大村一夫さんは、当時の様子を生々しく証言しました。爆心地から1600mの自宅で、たまたま朝食を食べるために家の中に入ったときに被爆。全壊した家からはい出した大村さんは、「外に出て、びっくりした。街が消えていた」と言います。そして、血みどろで移動する人々と一緒に、火の手から逃げるように避難しましたが、その道中は「水をくれ、水をくれの大合唱。火傷した兵隊が川に飛び込んだ」と当時の惨状を述べました。電車の中で、炭のようになった遺体を見ても、「何も感じなくなっていた」と振り返りました。

 大村さんは通常の爆撃による惨状は目に見えるが、核兵器による恐ろしさは目に見える惨劇だけでなく、「被爆者の恐怖がずっと続く」ことだと指摘します。戦後、引っ越した先で、近所の人たちが次々と急性白血病でなくなっていき、「助かったと思ったのに、死ぬ怖さがある」と語りました。自らも、「白血病になるかもしれないという不安から、夢も希望も持てなくなった」と言います。

 「戦争について考える人に、周りの流れに任せないで自分で考えられるように、なってほしい」と、大村さんは今、「語り部」として自らの体験を語っている思いを紹介しました。

(「ほっかい新報」8月6日付より)