道民青会館の建設募金を報じる「ほっかい新報」1967年6月2日号

 今年は共青創立(1923年4月5日)から100年の節目となります。「『日本民主青年同盟北海道委員会の足跡』を記録する会」(小沢伸治代表)がまとめた「1960年代・70年代初頭の民青北海道委員会の足跡」から、北海道委員会の当時のとりくみを紹介します。

民青道委員会の新しい出発、70年代の発展へ

 共青の伝統を受け継ぎ、戦後、日本青年共産同盟、日本民主青年団と継承し、56年11月に日本民主青年同盟として改称されました。

 北海道では59年8月に札幌で再建運動がはじまり、60年10月北海道大会が開催される時には、札幌・函館・室蘭・十勝・小樽・夕張など10地区と同盟員数も4桁に発展します。

 当時は、国民救援会道本部の事務所に机を置かしてもらい、専従者1人の活動でした。その後、翌年には函館、札幌、旭川に専従者が生まれ、活動が広がっています。

 67年7月には「北海道民主青年会館」(札幌市北11条東1丁目)が全道の同盟員の支えによって、建設されました。共青創立50周年を迎える73年1月には、函館・北渡島・室蘭・苫小牧・日高・小樽・札幌・空知・旭川(上川・留萌地域含む)・稚内・北見・釧路・根室・十勝・北大学生の15地区委員会があり、それぞれに複数の専従者が配置され、全道の同盟員は1万人、民青新聞読者は2万人を超えました。そして、同年5月には札幌地区委員会を北部・中部・東部の3地区委員会に分割しました。

共闘のとりくみ

 59年10月に、民青同盟、総評青対部、社会党青年部などで「中央青学共闘」が結成され、安保闘争が取り組まれました。65年には、「安保反対青年学生共闘再開めざす中央青年学生代表者会議」(青学代)が結成され、北海道でも民青道委員会、動労札幌地本青年部、勤医労青年部なども参加し、職場、地域、学園での運動が広がりました。

 61年からは民青道委員会、北海道合唱団、社青同道本部、全道労協青婦協が実行委員会を結成し、北海道青年学生平和友好祭が開催され、2000人が参加。

 道内での米軍・自衛隊基地反対闘争でも、民青道委員会はたたかいの一翼を担いました。「恵庭事件」(62年)では現地調査や宣伝、同年の浦幌町でのロランC基地反対闘争、69年には長沼町へのミサイル基地設置の反対の闘争を行いました。

地域、職場、学園のなかで

 学生のなかで―64年2月に北海道学生自治会連合(道学連)が再建されました。民青同盟は、学生の要求実現、反戦平和の活動などの先頭に立ちました。

 経営班の発展―60年代から70年代にかけて、紙パルプ、鉄鋼、炭鉱、船舶、金融、医療、国鉄、郵政、電通、公務員などの民青班が大きく前進し、三桁の同盟員を組織する班も生まれました。

 農村での活動―60年代から70年代にかけて自民党政府は、アメリカからの農作物の輸入の拡大、生産費に見合わない農産物価格を押し付けてきました。民青農村班は、地域青年団とともに活動を広げ、安保条約廃棄や農業問題の学習会、うたごえ、フォークダンスなど、青年運動の発展に力をつくしました。

 高校生の活動―核廃絶、安保条約、日の丸・君が代などの社会問題を考える学習会、「校則」「学力テスト」を自主的に考える活動などが取り組まれました。学生同盟員が「高校生相談員」として協力するとりくみもありました。77年には週刊紙「われら高校生」が創刊され、道内で3000人の読者をこえたと記録されています。

(「ほっかい新報」5月7日付より)